第2回 こころがキレないために大切なもの
記事公開日:2015年05月26日
最近の多発する事件には驚きと共に悲しみ、怒りをも感じる。なかでも短絡的な暴行や殺人、虐待問題等が報じられる度に加害者のこころの内に思いを巡らせてみるのだが、なかなかその心中を察することは難しい。
ある時期から「キレる」という表現がよく使われるようになった。それは子どもに限らずおとな社会においても、安易に、またなんの違和感もなく使われているように思える。ちなみに「キレる」とは、広辞苑によれば「我慢が限界に達し理性的な対応ができなくなる」とある。つまり堪忍袋の緒が切れて感情が爆発してしまうのである。
しかし「我慢の限界」や「キレる」というのは、かなり個人差があるように感じられる。
私たちは当然、当事者の行動面を問題視するが、実はそこに至るこころや感情の発達にも目を向けなければならない。
感情の発達には、乳幼児期からの親との関わりが大きく影響すると言われている。そこでいくつかの対応を考えてみたい。
一つ目は「親は子どもの身体の内側の感覚について関心をはらうことが大切」ということ。おなかが空いたとか喉が渇いたというのは、身体の内側の感覚といえる。そこで同様に「いらいら」とか「さみしい」とか「不安」などの内側の感覚に注意を向けることが重要になる。
たとえば、子どもは自分が何かを食べておいしいと感じると「ママは?」と尋ねてくることがあるが、これは「ママの中にも自分と同じ感覚があるのかな?」と確かめているのである。つまり味覚の「共有」を望んでいるのであるから、しっかりとこれに応えていくことが、後々の「共感」とか「人への思いやり」につながっていくのである。
二つ目は「触覚を通して相手の内側の感情に触れる」ということ。感情の発達にとってこの触覚はとても重要で、乳児期から人に触れられたり、自分も人に触れることは大切なことである。これは今日スキンシップ(身体接触=フィジカルコンタクト)ということばで一般に知られているものである。
三つ目は「親が、子どもの内側にある感情や感覚に触れることばを使う」ということ。
たとえば赤ちゃんに話しかける時、ただ「お花だね」「ワンワンだね」と言うのでは、単に外見だけの言語化である。そこで「お花だね、きれいだね」とか「ワンワンだね、かわいいね」などと子どもの内側(感情)に触れることばかけをしていくことが重要と考えられている。
このように、幼少期からの親子関係がその後の子どもの感情発達とこころの成長に、大きな影響を及ぼすことが指摘されている。しかしながら、いずれも家庭での家族の触れ合いの機会が無ければ始まらない。
事件を引き起こす多くの若者には社会への不満、不安が存在するが、彼らに安心できる家庭があったのであろうか。実際、家庭の不和、親子関係に苦悩する若者は、過激な勧誘活動を展開する教団の標的となり易い。
また、虐待する母親自身も子どもの頃、親から虐待を受けていたという「連鎖(れんさ)」も少なからず指摘されているが、その母親の育った家庭、親子関係はどのようなものであったのかは想像に難くない。
ある作家は、非行少年の家には仏壇がないと言う。たしかに仏壇というものが、家庭や家族関係のこころに及ぼす影響も考慮されてよいであろう。むしろこのような時代だからこそ家庭の中心の仏様の前に静かに座るひと時というのは、家族一人ひとりのこころを豊かにするためにも大切ではないだろうか。
※本原稿は、日蓮宗新聞 平成25年4月に掲載した論説「こころがキレないために大切なもの」を転載しています。