TOP かわら版 こうようメッセージ 論説 第1回 お寺はこころの安全基地

第1回 お寺はこころの安全基地

記事公開日:2015年05月25日

私が住職をしているお寺の本堂の下には、子どもの相談室がある。小さなお寺の狭い空間だが、ここには遊具が常設されたプレイルームと相談室(カウンセリングルーム)があり、定期的に子どもが相談に訪れている。

現代社会は、親にとっても子どもにとってもなにかと悩み多き時代である。子どもが順調に成長し発達してくれることほど親にとって喜ばしいことはない。しかしながら、こころの問題をかかえた子ども、あるいは子育てに悩む親たちも少なくない。

子どものこころの発達を考えた時、子どもを取り巻く環境の重要性はいうまでもないが、とりわけ直接子どもの養育に関わる母親との関係は、子どものこころに大きな影響を及ぼす重要なものであろう。

乳児は、誕生後まもなくから自らの持って生まれたあらゆる能力を使ってこころを発達させていくが、その時大切な役割を果たすのが母親(もしくは母親に代わる人)の存在である。乳児は、この母親との間で結ばれた深い愛情の絆を基にこころを発達させていくが、この愛情の絆はアタッチメント(=愛着)と呼ばれている。

このアタッチメントという語を提唱したボウルヴィという学者は次のように述べている。 「人間は、どの年齢層においても何か困難が生じた時に援助してくれる人と、信頼のおける人が自らの背後に一人以上いるとの確信がある時に、最も幸福であり、かつ能力を最大限に発揮することができる。その人とはアタッチメント対象であり、一緒にいることで安全の基盤が与えられる」

このことばは、人のこころの発達には「人との絆」と「安全」というものが、いかに重要であるかを示している。

現在、当相談室に定期的に来談している男の子がいる。彼は小学生で、多動傾向が強い。なかなか人の話に集中できないマイペースな子どもだが彼はお寺に来ることが嬉しくて毎回の相談日を心待ちにしており、実にいい笑顔でお寺の玄関に入って来るのである。もちろん彼は「お参り」にではなく「遊び」にやって来るのである。

また、不登校が続いている中学生の女の子は、とても繊細で家族以外の人とは、年齢を問わず会話や関わりを持つことが苦手な子である。しかし、その彼女も相談日には両親と一緒にお寺にやって来る。もちろん彼女も「お参り」ではなく「遊び」にやって来るのである。

この子どもたちも両親も、信仰的な繋がりを持ってお寺に来る訳ではない。しかしあらためてお寺という所が、彼らにとってこころの拠り所となっており、目には見えないこころの絆で結ばれていることを嬉しく思うのである。

この絆から生まれる安心・安全というものは、いうまでもなく子どものみならず、私たちおとなにとっても重要な役割を果たすものであろう。

本来お寺という所は、人々のこころ安らぐ場所である。そこはまさに子どもが母親を安全基地とするように、多くの人びとにとっての「こころの安全基地」なのである。

今日、東日本大震災を契機として「絆」ということばを見聞することが多いが、これはけっして一時的な流行ことばではない。人は、時間・空間を超えて人と繋がることができてはじめて、こころの安全が保障され、自分らしく、自立して生きていくことができるのである。

今一度「絆」という意味について考えてみてはどうだろう。

※本原稿は、日蓮宗新聞 平成24年12月に掲載した論説「お寺はこころの安全基地」を一部修正して転載しています。